極楽寺山を歩いて 登ってみたら……
『図説 廿日市の歴史』
廿日市市の北寄りにある極楽寺さんは、
広島県指定文化財の「極楽寺本堂」や
「十一面千手観音坐像」で有名であるが、
その自然もまた県内では指折りのものである。
頂上から宮島を始め
瀬戸内の島々が手に取るように眺められ、
頂上一体は瀬戸内海国立公園に指定され、
憩いの森にもなっている。
車で頂上近くまで行けるため、
キャンプなどで市民に親しまれているが、
麓から歩いて登山すると、
廿日市の自然の多様さと美しさ、
そして人の暮らしに伴う
自然改造の姿が実感できる。
平成8年5月17日、
朝9時、佐方公民館を出発。
快晴、絶好の登山日和である。
目指す頂上は海抜680メートル。
ほとんど海抜ゼロメートルからの山登りである。
中国山地は三段の階段のような地形になっている。
一番上が道後山面(800~1000メートル)、
中間に吉備高原面(400~600メートル)、
そして
瀬戸内面(100メートルくらい)の
三つの平らな地形があり、
その間は急な斜面になっている。
今から登るのは、
瀬戸内面から極楽寺山の頂上がある
吉備高原面への急斜面である。
まず佐方の住宅地を抜けていく。
緩やかな坂道で、
これが海岸線から瀬戸内面への斜面を登っているのだ。
5月中旬には、
佐方の山裾では椎木(シイノキ)の花盛りである。
椎木は冬に葉が落ちない幅の広い葉を持ち、
光沢がある。
ツバキ(椿)・サカキ(榊)・カシ(樫)・タブノキ(田附の木)
などもこのような葉である。
このような木々からな森は、
かつて、
日本列島の西南部には広く分布し、
日本人はこのような森で
文化を育んできたのであろう。
「万葉集」に出てくる地名を拾ってみると、
シイノキの分布する区域の中には
ほとんど含まれてしまう。
シイノキの北限は、
佐渡島の中央から
北陸と中部の南部を掠め、
仙台の南で太平洋に抜けている。
廿日市市には、
現在シイノキの林は極めて少ない。
洞雲寺とその近くの丘くらいである。
極楽寺山の麓の佐方には
シイノキが点々とあるが、
森林を形作るほどはない。
シイノキはどんぐりの仲間であるが、
その実は渋くなくて食べられる。
大昔、
わたくしたちの祖先の重要な食料であったろう。
佐方の住宅地を過ぎて、
いよいよ登山口から、
山道を登り始める。
ザラザラの土で滑りやすい。
これは花崗岩が風化した土で、
養分に乏しく、大雨が降ると流れやすい。
そのため、
参道の両側には「夜叉ぶし」という木の仲間が
土砂の流出を防ぐために植えてある。
ヒメヤシャブシの実は数個で下を向いているが、
オオバヤシャブシの実は一個で
上を向いているのですぐ区別できる。
「夜叉ぶし」の茂った暗い林をしばらく進んでいくと、
突然目の前がパッと開けた。
山陽自動車道である 。
廿日市は昔から交通の要衝として栄えてきた。
速谷神社が今なお
交通安全の神様とし崇められているのは、
中世以前の古道がその近くを通っていたからであろう。
その後、
西国街道などの海辺の道が主流となったが、
今また
高速道路が山際を通過し
速谷神社の後ろを通過しているのは、
歴史の面白いところである。
ここで一休み。
東に広島市、
西には我らが住む廿日市の市街地、
宮島・大野町が、そして
西能美島・倉橋島・大黒神島と瀬戸内海の島々、
そして天候が良ければ四国も見える。
人々がその暮らしを支えるためには、
自然を作り変えることはやむを得ない。
今、目の前に広がる風景は、
まさに、その人々の暮らしと
自然改造の接点と言える。
その自然改造の舞台が瀬戸内海で、
広島市鈴が峰の麓から、
山陽自動車道 、
廿日市市の阿品台、
そして大野町へと続く。
さあ、
頑張って登ろう。
いよいよ吉備高原面への登りである。
道路は若い松林で、
冬に葉が落ちるドングリであるコナラが、
今花盛り。
ちょっと触っただけでも
黄色い花粉を煙のように撒き散らしている。
葉を口に含むと酸っぱい
「酢の木」「斜めの木」という
不思議名の付いた木。
これは猫の好きな「マタタビ」、
これも木の名かと思う「隠れみの」、
そしてウルシ」よりもかぶれるとすごい
「蔦うるし」などなど。
ひとつひとつのネーミングに、
なるほどと感心しながら登っていく。
この林は、
シイノキの森を伐ったりを山火事などのために破壊されて、
その後にできたものだそうだ。
道はますます険しくなり、
飛び出た岩で手を怪我しそうになる。
森が深くなり、暗くなってきた。
モミやアカガシの自然林に入ったのだ。
この森林は、全国的に見ても優れたモミの林で、
廿日市の人々が古くから極楽寺の信仰によって
支えてきた貴重な森である。
極楽寺山は県内でも指折りの野鳥の天国で、
年間を通じて、
ウグイス・ヒヨドリ ・ホオジロなど、
冬には
アトリ・マヒワ・ミヤマホオジロなど、
夏には
ホトトギス・キビタキ・オオルリなどがやってくる。
けものも、ムササビの繁殖が確認されている。
昆虫類では、
ギフチョウをはじめとして
多くの蝶や蛾、
ヒゲナガカミキリなど珍しい甲虫が見つかり、
陸地に住む貝の仲間では
貴重なハンジロギセルやホソヒメギセルが生息している。
モミの自然林の中に仁王門が見えてきた。
12時だ。
海抜660メートル、 極楽寺本堂に到着した。
空を舞うツバメに
「ついに登ってきたぞ―」といい、
観音様を拝む。
本堂の左手にある大きなアカガシは
樹齢300年とか。
幹の中は虚ろになっていても、
しっかり生きている。
極楽寺山をたどりながら
廿日市市の自然を見てきたが、
大昔から人々の暮らしを支えてきた自然が
今なお力強く生きていることが実感できた。
第1章 暮らしを支えてきた自然 ~自然と環境~
『図説 廿日市の歴史』
第1章 暮らしを支えてきた自然
~自然と環境~
写真は極楽寺山山頂付近
「概説」
人は自然に育まれ、そしてまた、
人は暮らしのために自然をつくりかえる。
西洋では人と自然は対立したものと
見なされて来たが、
日本のように温和な自然環境に
恵まれた国では、
人も自然のひとつのものという
考え方が支配的であった。
廿日市市は、日本列島の中でも
とりわけ温和な自然環境である。
厳しい寒さや大雪もなく、強い風も吹かず、
大きな地震もなかった。
昔は、大水や日照りに悩まされたことも
あったが、治水や灌漑が行き届いた現在では、
ほんとうに恵まれた環境といえる。
廿日市市は広島湾の西側にあって、
中国地方を西部の高原状に広がる
山地の東の端に位置している。
東西約9km、南北に約11kmで、
面積は約45.7平方kmである。
一番高い山は野貝原山(733m)で、
海抜500m以上の地域は
市の面積の12%に達している。
地質はすべて花崗岩(御影石)で、
いわゆるマサ土のところが多い。
大きな川がなく、可愛川と御手洗川の下流に
小さな平野が形成されている。
海岸のほとんどは人工的な護岸で、
地御前神社の前にわずかに砂浜が残されている。
年平均気温は、廿日市市役所の位置で15.5度、
年降水量は1698ミリ、
降雪は沿岸部では
10センチを超えることはまれである。
市指定の天然記念物は
「ハゼ・キヅタ」(地御前賽の神)
「ソテツ」(天神、蓮教寺)
「イチョウ」(地御前小学校)
「シャクナゲ群生地」(宮内)
「天王社境内巨樹群」(宮内)
「河内神社境内巨樹群」(後畑)
「極楽寺山氷河礫層」(原)
の7件で、
国や県指定のものはない。
月の二十日に市がたつという
14世紀以来の由緒ある地名をもつ
廿日市市は、
山陽地方の中規模の都市として
平均的な存在といえよう。
ハゼ・キヅタ
写真提供:二十日市市教育委員会
写真提供:二十日市市教育委員会
野貝原山
厳島から二十日市市を望む
図説 廿日市の歴史 目次
発刊あたって
https://matmkanehara.hatenablog.com/entry/2019/10/01/041757
口 絵
https://matmkanehara.hatenablog.com/entry/2019/10/02/083308
第1章 暮らしを支えてきた自然
~自然と環境~
概説
https://matmkanehara.hatenablog.com/entry/2019/10/04/090938
極楽寺山を歩いて登ってみたら……
図説 廿日市の歴史 発刊にあたって
『図説 廿日市の歴史』
発刊にあたって
廿日市市長 山下三郎
廿日市市は、
昭和63年(1988)の市制施行から数えて、
今年で十年目という記念すべき年を
迎えました。
この間、
本市はさまざまなプロジェクト事業を
着実に推し進め、
都市としての基盤整備に務めるとともに、
いままた躍進する廿日市市の
行政・文化の拠点としても、
また廿日市市のシンボルとしての
庁舎・廿日市市完成を見ました。
この市制施行十年、
庁舎・文化センターの完成を一つの契機として、
新たなまちづくりに挑戦しようとしています。
この新しいまちづくりの原動力は
市民の力、市民の英知であり、
その結集なくして新しい
「まちづくり」は実現できません。
そして、そのもとになるのは、
市民のこのまちに対する
「愛情」であり、「誇り」であります。
郷土に対する「愛情」や「誇り」こそ、
まちづくりの原動力と言えるでしょう。
郷土に対する「愛情」や「誇り」は、
まず「郷土を知る」ことによって、
育まれるものと思います。
また、
それぞれの都市は
それぞれの歴史を持っており、
その歴史を基盤として、
そのうえに新しい歴史が刻まれていきます。
そうした意味から、
私たちの祖先や先輩たちが
このまちにどのような歴史を刻み、
どのように生きてきたかを知り、
その歴史・文化をしっかりと継承し
発展させることは、
現代に生きる私たちの責務であると同時に、
これから新しい「まちづくり」を
進めていくうえでの課題でもあります。
本書は、
これとは別に廿日市の未来を担う
児童・生徒を対象として発刊した
石ノ森章太郎先生による
『まんがはつかいちの歴史』とあわせ、
庁舎・文化センター落成記念・
市制十年記念事業の一つとして、
このような観点から、
こうした課題に応えるものとして
編さんされたものです。
この本をご覧いただくことによって、
市民の皆さんに郷土「廿日市の歴史」を
より深く知っていただき、
このまちに対する
「愛情」や「誇り」が育まれ、
新しいまちづくりにいささかなりと
寄与できるよう願ってやみません。
本書の編さんに当たっては、
監修をお願いした広島大学名誉教授
後藤陽一先生をはじめ、
編さん委員・編集委員・執筆者の皆さんなど、
多くの方のご協力をいただきました。
ここに深甚なる敬意と謝意を捧げて、
発刊の言葉といたします。
平成九年四月
材木入札場の絵馬
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図説 廿日市の歴史
平成9年3月25日発行
編集・発行 廿日市市
〒738
広島県廿日市市下平良一丁目11-1
電話 (0829)20-0001
印刷 株式会社 ぎょうせい
中国支社
〒730
広島市中区八丁堀2-6
電話 (082)221-6711
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